Storie di passione italianaイタリアに恋しちゃう物語

人生は祭りだ Vol01ローマ〜東京〜ミラノ:これまでのお話

1998年ー2000年の約1年半の間、僕はイタリア政府交換留学生として、イタリアのローマ大学建築学部へ留学していた。交換留学なので、学籍は日本国内の大学院にあったものの、大学院生活のほとんどの時間を、ローマで過ごした。途中、就職面接を受けに一時帰国したが。その経緯についてはまた他で書こうと思う。

2000年初頭、ローマから東京へ帰国し、卒業の手続きなどを経て、そのまますぐに社会人になった。入社した日本最大手の広告代理店は、当時かなりブラックで、ローマ帰りの僕は相当戸惑った。覚悟していたものの、予想以上に窮屈で、常に何かに怯えながら暮らした。留学生活が、ものすごく恋しく感じた。あの頃に帰りたい。あの太陽、街並み、人々の笑顔、歌うような言語が懐かしい。毎日毎日そんなふうに思って、文字通り泣いているうちに、そのブラックな会社にもやがて順応し、仕事も楽しくなってきて、気づくと僕は日本の会社でサバイブしていた。人間の適応力ってすごいなと思った。

その後僕は日本人女性と結婚し、一女一男の子宝に恵まれた。そうして時は過ぎて行くなかでも、ずっと自分の中に、「もう一度イタリアに戻りたい」という思いは燻り続けていた。イタリア旅行に行ったら観光地より不動産を回ったし、子供が通えそうなイタリアの学校を調べたりした。イタリア国内の求人案内はあの手この手でチェックしていた。

そうして時は過ぎ2015年。ミラノで万博が開催されることになり、僕は万博の仕事を手伝うチャンスをゲットした。それにあたり、ビザも発行してもらえることになった。就職で日本に帰国して以来、まさに15年越しのイタリアに戻れるチャンス。新卒で入社した広告代理店は辞めて都内で零細企業を経営していたが、迷いはなかった。家族四人でミラノに行く。もう一度あの国で暮らす。妻の同意を得て、仕事関係の人たちやスタッフに頭を下げ、最低限の荷物を持って、家族4人ミラノに降り立った。娘が7歳、息子が3歳だった。そこから約2年間、2017年に再び日本に帰国するまで、家族四人、ミラノを拠点に、七転八倒しながらも、濃密な時間を過ごした。

2022年2月現在、イタリアは、世界は、急に遠くなった。25年前に留学していた頃よりも遠くなった。イタリアには多くの日本人の方々が暮らしているし、いまさら僕がイタリアについて何かを書くことにどんな意味があるのか、自分でもよくわからない。また書けることは極めて個人的なことで、誰かの何かの役に立つとも考えにくい。単なる回顧録になる恐れもある。それでも書いてみようと思ったのは、足掛け25年、四半世紀に及ぶ、イタリアと自分との間に起きた出来事や、時間と共に変化していく、何かと何かの関係性のようなものを、記録として残しておきたいと思ったから。

タイトル「人生は祭りだ」は、言わずもがなですが、フェリーニ監督の名作「8 1/2」ラストシーンの名台詞から拝借しました。この映画のラストシーンではこのあとに、「共に生きよう」という台詞が続く。大学時代に出会ったこのセリフは、自分の中では人生のテーマの一つになっている。イタリアの各都市で経験した、冗談みたいな、でも振り返ると愛おしくなる小話をつらつら書いてみます。以前のように、身軽に気楽に日伊を往復できる日が来るまでの、箸休め的なコンテンツとしてお楽しみ頂けたら幸いです。

2016年10月 ミラノの家の近所のバールで。愛娘(当時7歳)の学校での様子を聞く筆者

 

志伯健太郎
クリエイティブディレクター。慶應SFC、イタリア・ローマ大学建築学科で建築デザインを学び、2000年電通入社後、クリエイティブ局配属。数々のCM を手がけたのち、2011年クリエイティブブティックGLIDER を設立。国内外で培ったクリエイティブ手法と多様なアプローチで、企業や社会の多様な課題に取り組む。 glider.co.jp