Storie di passione italianaイタリアに恋しちゃう物語

フィレンツェのシンボルをその名にしたドルチェ トルタ・ディ・イリス

フィレンツェを眼下に見渡すミケランジェロ広場のすぐ近くに、1954年に設立されたイリス(アヤメ)・ガーデンがある。2ヘクタールの敷地におよそ3000種ものアヤメが栽培されており、毎年5月の満開時には無料で一般公開している。この時、庭園には手作りの石鹸や雑貨などを売るちょっとした屋台が出る。その中に、フィレンツェの名物菓子、トルタ・ディ・イリスを見つけた。一般的に伝統菓子は、いつ生まれ、どのような歴史を辿ってきたのかはっきりわからない。一方、とある菓子店や菓子職人が作り出し、ほぼその店だけで作り続けられている名物菓子というものも存在する。トルタ・ディ・イリスはそのパターンである。

1933年、フィレンツェのポルタ・ロマーナを出てすぐのセネーゼ通りに、パスティッチェリア「グアルティエリ」が誕生した。第二次世界大戦後、フィレンツェの街中にあった「スクディエリ」や「ロビッリオ」といった老舗に負けない名店を目指して改装し、エレガントなデコレーションを施したケーキやタルトを次々と売り出して、“鄙には稀な”おしゃれ菓子の店として認知されるようになる。ウインドウには華やかな装飾を施したケーキが勢ぞろいする中で、ひと際真っ白で何の飾りもない四角いケーキがあった。それがトルタ・ディ・イリスである。
イリスは、フィレンツェのシンボルであるジッリオと深い関わりがある。ジッリオは一般にユリを指すが、フィレンツェのシンボルはユリではなく、ジャッジョーロと呼ばれるアヤメ属のアイリスやアヤメなどが由来だという。フィレンツェ近郊のアヤメ栽培農家の間に伝わる逸話によると、イリーデという名の美しいフィレンツェ女性が、若い画家の求愛に対して「もし、あなたが描く花に、そのあまりの美しさに惑わされた蝶が止まれば愛を誓う」と約束、画家は見事に成功し、その花は彼女の美しさを讃えてイリスと名付けられ、フィレンツェのシンボルとなったという。そのほかにもイリスにまつわる伝説は数多あり、その一つは、イリーデという神の使いが、嵐の終わりを人々に告げるためにベールを虹に変えたが、その虹の色を宿している花はイリスと名付けられた。ちなみにイリーデとは、ギリシャ神話の虹の女神イリスのことである。

今、フィレンツェの旗は白地に赤いイリス(ジッリオ)が描かれているが、その昔は、赤字に白いイリスだった。1260年のモンタペルティの戦いで、当時フィレンツェの権力を握っていた教皇派はこの赤字に白のイリスを染め抜いた旗を掲げて皇帝派のシエナと戦い、敗北した。その後、1266年のベネヴェントの戦いで教皇派が皇帝派に勝利してからは、フィレンツェは白地に赤のイリスの旗を用いるようになったのである。
フィレンツェの東の山間、標高は900〜1000mにまで達する地域では、5月になるとアヤメの花が一斉に咲く。アヤメ類は、繁殖力が強くほかの植物を凌駕する恐れがあるため、根こそぎ抜くべき植物とされていたが、18世紀終わり頃、その根茎が化粧品の素材として有効であることがわかってからは、農家の副業的な栽培が広まった。根茎を乾燥させ、粉末状にしたものは、第二次世界大戦直後まで、スミレに似た香りのするおしろいの原料として、また、リネン類の香りづけに広く使われた。化粧品だけでなく食品添加物としても重宝され、冷涼な山間部で造られる酸味の強いワインには100kgにつき0.5〜1.5gの根茎粉末を加えると、酸味が和らぎ、微かなスミレの香りがするワインになったという。粉末の代わりに、乾燥させた根茎をブドウのしぼり汁に漬け込むこともあった。さらには、乳歯が生え始めた子供には、同じく乾燥させた根茎を齧らせるとむず痒さが治るとされた。鎮静効果もあるのだという。フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局では19世紀よりこのイリスのエッセンスを石鹸やクリーム、おしろい、歯磨き粉にと幅広く利用している。

さて、イリス・ケーキであるが、このケーキのレシピは秘伝とされ、作り方はおろか、材料さえもわからない。確かなことは、このイリスの粉末が使われており、小麦粉は不使用ということである。真っ白な糖衣はたっぷりと厚さ5mmほど、その中は濃い黄金色のほろほろと脆い生地で、ほのかに甘い香りがする。油脂の詳細は不明だが、かなりしっかりと使われている。ロンバルディアのトルタ・パラディーソにも似ているが、それよりももっとコクがある生地で、糖衣の甘さとの均衡は絶妙である。けして冷蔵庫で保存してはならないが、この糖衣のおかげで一週間は全く変わらずに保つ。見た目は超シンプル、でも、中身はかなり独特でしかも秘密主義なイリス・ケーキ、相当にフィレンツェ的なドルチェである。

Pasticceria Gualtieri
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記事:池田愛美