2016年初冬。僕たちは年明けに日本へ本帰国することを決断した。ミラノに来て1年半が過ぎ、丸2年が見え始めた頃だった。ミラノでの暮らしは楽しかった。子供たちはすっかり慣れて、友達もたくさんできた。一方で、僕の仕事のことや、日本に残してきた会社のこと。高齢に差し掛かった親のことなどを考えると悩ましかった。多くの理由があり、僕らは日本に本帰国することに決めた。いざ帰るとなると、ミラノはクリスマスに近づき、慌ただしい雰囲気の中、上の娘は、イタリアの友達と離れるのを寂しがり、最後に何件か、仲良しのお家にお泊まりをさせてもらい、最後の時間を楽しんでいた。息子が習っていた空手教室への挨拶も必要だった。先生はアンドレア先生、という若くて優しい熱心な先生で、保護者たちからの信頼も厚かった。空手はイタリアでも人気。イタリアの子供たちが「押忍!」と一斉に正拳付きをやる姿はなかなか可愛かった。
忘れられないエピソードを一つ。ある日、アンドレアのお師匠さんが来校し、子供たちの前で、空手の組手を披露する、というちょっとしたイベントが開催されることになった。大人同士の本物の黒帯空手が見れる、と子供たちはもちろん、保護者たちも大勢集まり、いつもの道場はかつてないほどの熱気を帯びていた。
期待感に満ちた中、組手は始まった。いわゆる約束組手と呼ばれる、初めからお互い同意した技を仕掛ける組手だが、アンドレアは一方的にお師匠さんにやられる役だった。蹴りを食い、突かれ、投げられる。その度に、ものすごいオーバーアクションをとる。張り詰めた道場に、師匠の気合の声と、その気合の声に呼応するかのようにあげるアンドレアの「やられた!」的な大きな声が響き渡る。「こ、これは、、、空手というよりは、プロレスだ!」、とその場に居合わせたイタリア人保護者たちも皆感じていた。しかし、師匠とアンドレアは真剣そのものに披露してくれている。ここで笑ってしまうのは失礼だと、皆必死で笑いをこらえながらなんとか最後まで鑑賞し、最後は大きな拍手で感謝とリスペクトの意を伝えた。一方的にやられ続けるアンドレアからは、イタリアにも存在する師弟関係の強固さを感じた。
そんな空手教室にもお別れを告げる時が来た。クリスマス前、もう多くの子供たちが休暇に入った後。息子ともう一人の子、二人だけのために、アンドレアは最後の稽古をしてくれた。組手 イベントのときには人で溢れかえっいた道場は、この日はアンドレアと、イタリア人の子、息子の3人だけの静かな稽古になっていた。僕は最後の挨拶の様子をiPhoneで隠し撮りをして、「Ultimo Lezzione(最後のレッスン)」と一言だけ添えて、妻に送信した。妻からは「泣いちゃう」という返信がすぐに返ってきた。僕はもう泣いていた。
稽古の後、アンドレアに、今までありがとうと伝えると、アンドレアは優しい笑顔で、寂しくなるけど会えてよかった、と言って、また会おうねと息子に言って、最後に抱きかかえてくれた。息子の嬉しそうな笑い声が、ガランとした道場に響き渡った。
空手はイタリアの子供たちにも大人気。学校の道場にて
Ultimo Lezione(最後のお稽古)
アンドレア先生、ありがとう
志伯健太郎
クリエイティブディレクター。慶應SFC、イタリア・ローマ大学建築学科で建築デザインを学び、2000年電通入社後、クリエイティブ局配属。数々のCM を手がけたのち、2011年クリエイティブブティックGLIDER を設立。国内外で培ったクリエイティブ手法と多様なアプローチで、企業や社会の多様な課題に取り組む。 glider.co.jp