
大地の恵みを独自の世界観で表現する女性シェフ
フリウリ・ヴェネツィア・ジューリアで2014年にオープンし、すぐに一つ星を取った。それがレストラン「アルジネ」のシェフ、アントニア・クリュグマン初の著書の裏表紙に書かれている紹介の一文である。これだけでは、彼女の料理が高い評価を受け、多くの人が彼女の料理を食べたいと思う理由はわからない。まず前段階として、「フォレジングforaging」ブームについて知っておく必要があるだろう。コペンハーゲンの「Noma」が有名になったのは、このフォレジングが一役買ったとも言える。Forige(食料をあさる)という言葉から派生したフォレジングは、“森や野で食べられる草木などを採取する”という意味である。葉や花、実、根だけでなく、樹皮の内側、樹液、樹脂や、地衣類など、あらゆる可食の野生の植物を採取する。それらのほとんどは、エディブルフラワーのような見た目は美しいが味はほとんどない(栄養もない)植物とは違い、強い味と香り、個性的な食感を持つ。

フォレジングは何も北欧だけに限ったことではない。日本の山菜採りもフォレジングだし、イタリアも昔から野山で野草を摘んで料理に使うのは当たり前だった。そして18世紀に、フィレンツェの医者で自然主義者の一人が「アリムルジャalimurgia」と呼び、特に飢饉など緊急時に役立てることを目的に、体系的に可食植物を調査研究する一つの科学として提唱したのである。一方で、農家や田舎に暮らす人々は自然に生えているルゲッタ(野生のルーコラ)、チコーリア、タラッサコ(タンポポ)などを摘んでは日常的に料理していた。19世紀末まではそうした野草などが食事の7割以上を占めていたという説もある。しかし、20世紀の特に戦後以降は、栽培された野菜を買うことが当たり前になり、野草を摘んで食べるという習慣はほぼ消滅した。それが今、長引く経済の停滞や、自然回帰、生物多様性重視など、さまざまな要因からアリムルジャ、つまりフォレジングが注目を集めるようになっているのである。

さて、アントニア・クリュグマンだが、彼女の料理の特徴は、自分で耕した畑で穫れる野菜や果物、畑の周りや野山に自生する植物を駆使すること、そして、それらの食材を葉先から根まで、とことん使いこなすことにある。皿の上に表現される料理の容貌は繊細でクリーン。だがその味わいは複雑で、甘い、からい、苦い、酸っぱいというシンプルな表現では収まらない、新しさを感じながらも同時に昔から知っているような感覚を抱かせる。一見すると特別なものは見当たらないが、食べればその芯の強さ、奥深さがわかる。
アントニアは、両親の望みもあり、大学で法学部に進んだが、生来クリエイティブな事物に興味があり、やがて料理の面白さに気づいた。大学をやめ、料理の道に進むためにまずはレストランの皿洗いに入った。その後、「Degli Amici」のラファエッロ・マッツォリーニ、「Arquade」のブルーノ・バルビエリ、「Dolada」のデ・プラ家などの元で修業を重ねた。ところが、25歳の時に交通事故に遭遇。仕事帰りに酔っ払い運転に突っ込まれたのだ。幸い、致命傷は免れたが、強いムチウチの後遺症が残り、厨房に立つこともままならなくなった。一年の自宅療養の間、リハビリも兼ねて散歩や畑仕事をするようになる。自然にあるものに目が向き、植物図鑑を手に散歩の途中で見つけた植物を逐一調べていった。畑の野菜や野草と向き合い、厨房に立てなくても、頭の中で料理を組み立てた。こうした経験が彼女の料理の方向を決定づけたのである。
26歳で彼女は初めての自分の店を立ち上げた。しかし、家賃と環境に満足できなかった彼女は、もっと自然に近く、自分の料理が表現できる場所を探し出し、そこでパートナーと共に自らの店を建物から作ることにした。それが現在の店「アルジネ」だ。地理的にはゴリツィア県にあるが、すぐ目の前はスロヴェニア。生まれ故郷のトリエステに似て、オーストリア・ハンガリー的な匂いが濃厚に残っている。そして森と野原と葡萄畑が入り混じった土地でもある。ひとことで言えば、ちょっとミステリアスな辺境の地だ。そんなところで古い粉挽き小屋跡をリストランテに作り上げるのは、口で言うほど容易くはない。実際に、アントニアはよそのレストランで働いて資金を作り、パートナーが建造に専念して、4年後にようやく「アルジネ」は完成した。
周囲の緑に溶け込むような平屋のモスグリーン色の建物。開口部は大きく、ガラスを通して中の客席がよく見える。客席からは窓を通して外の畑、反対側の窓からは葡萄畑が見える。葡萄畑の向こうはスロヴェニアだ。ガラスで仕切られた厨房の様子は音は聞こえなくても雰囲気は伝わってくる。静かすぎずうるさすぎない程よい空間だ。メニューは若干のアラカルトもあるが、彼女の料理の本質を知るにはやはりコースがいい。5皿で70ユーロ、6皿で80ユーロ、10皿で110ユーロの三つのメニュ・デグスタツィオーネがある。さらにフリウリのワインとのペアリングは6種類で50ユーロ、現地以外ではなかなか出会えない希少なワインも多く、かなりお値打ちである。
アントニアは、実にエネルギッシュで、早口でよく喋る。一緒に畑を回っていると「あれも食べられる、これも。ほら、すごい香り。食べてみて」と次から次へと草を引っこ抜いて渡される。畑の周りに彼女が野で摘んできた草の種などがこぼれて根付き、自生しているのだ。「スタッフに『あれを摘んできて』というと、『どこにあるんですか?』と聞かれるから、『あの道のあの辺りよ』と教えるの。すると『本当にありました』と驚かれる。毎日歩いているから覚えちゃうの」と笑う。髪の毛はくしゃくしゃで、コックコートはよく見ると泥がついている。自分で自分のことをだらしないという彼女だが、だらしないというよりは、元気一杯の野生児だ。彼女の料理が、見た目の繊細さを裏切って骨太な味がするのは、彼女自身が現れているのだと納得した。
「アルジネ」の料理は、昔からイタリアで当たり前だった野草を使うという習慣と、アントニアならではのクリエイティビティ、そして何よりも彼女のバイタリティが絶妙に合わさって初めて出来上がるものだ。彼女らしさをフォレジングが引き出し、誰にも真似のできない世界観を作り出したと言ってもいいだろう。
L’Argine a Vencò http://www.largineavenco.it/
記事:池田愛美