Storie di passione italianaイタリアに恋しちゃう物語

今年新たに注目のキーワード「カチョ・エ・ペペ」

「カチョ・エ・ペペ Cacio e pepe」とはローマおよびラツィオ州を代表するパスタ料理のひとつで、アマトリチャーナ Amatriciana、カルボナーラ Carbonaraと並ぶローマの3大パスタとも、いやカチョ・エ・ペペこそ最も古いローマのパスタだ、とも言われている。「カチョ」とはチーズを意味するイタリア語だが、カチョカヴァッロ Caciocavalloやなど主に南イタリアで使われており標準語ではフォルマッジョ Formaggioだ。この「カチョ・エ・ペペ」の材料は主に羊のチーズ(ペコリーノ・ロマーノ)と黒胡椒だけという真の意味でのクチーナ・ポーヴェラである。パスタはスパッゲッティ(あるいはスパゲットーネ)、またはla Molisanaなどではスパゲット・クアドラートとも呼ぶ断面が四角いロングパスタ・トンナレッリ Tonnarelli、またはショートパスタ・リガトーニ Rigatoniを使うのが正統とされている。

その昔、ローマで修行していた日本人料理人と話した時、まかないでリガトーニ・カチョ・エ・ペペが出るとイタリア人料理人たちは大喜びするのだが、彼はさすがに連日のカチョ・エ・ペペにげっそりとなり、一人米を炊きチーズをかけて食べていた、という逸話を話してくれた。イタリア人にリガトーニ派は多いがペンネでもメッツェ・マニケ(ローマでいうボンボロッティ Bombolotti)でもなんでも、とにかく溝さえあればいい、という豪傑もいる。

最小限の材料で作るという意味では、よく絶望のパスタと呼ばれるプッタネスカ Puttanescaあるいはその名も貧乏そのものであるポヴェレッロ Poverelloに比べてもさらに材料は少ないミニマルそのもののパスタであるが、その起源はローマ周辺の羊飼いに由来する。ラツィオからアブルッツォ周辺のアペニン山脈を移動放牧している羊飼いたちは、夏は羊とともに涼しい高地で過ごすが、秋の訪れともにプーリア方面へとトランスマンツァ Transmanzaと呼ばれる羊を連れて大移動をする伝統がある。野営が続くトランスマンツァの間は食事もごくごく簡素なもので、パスタを茹でてペコリーノと黒胡椒、あるいはチーズだけかけて食べるという習慣はこのトランスマンツァに発するものだ。ローマ時代は当然まだ黒胡椒はイタリアには存在しなかったが、その当時から続く非常に古い料理であることは間違いない。ちなみにこのトランスマンツァ中、羊が好んで食べたという理由から名付けられたのが、マルケやアブルッツォに存在する白ぶどう品種ペコリーノだ。

ダイハードな羊飼いの料理はローマ以外にもあちこちにその独特な料理文化を残しており、トスカーナとリグーリアの州境に位置するルニジャーナ地方には、最古のパスタとも呼ばれるテスタローリがあるが、これは羊飼いが少量の小麦粉でパスタ生地を作り、焼いてからさらに茹でるという手間がかかるものではあるが、最後にはチーズをかけて食べたもの。また、フィレンツェの「トラットリア・ガルガ」(現ガルガーニ)のシェフ、エリオ・コッツァの兄ジャンニ・コッツァは、サルデーニャに住む正真正銘現役の羊飼いなのだが、以前彼の家を訪ねた時、冷蔵庫を開けたらむき出しのペコリーノがひとつしか入っていなくて驚いたことがある。

そうしたクチーナ・ポーヴェラは現代ではシェフたちのインスピレーションを大いに刺激するらしくガルダ湖にある「リド・オッタンタクアットロ Lido 84」シェフ、リッカルド・カマニーニ Riccardo Camaniniのスペシャリティである「リガトーニ・カチョ・エ・ペペ」はローマ時代の羊飼いの調理法を踏襲したもので、なんと豚の膀胱の中に材料を全て詰め込み湯煎で仕上げるもの。熱せられて風船のようにふくらんだ豚の膀胱はゲストの前にしずしずと運ばれ、ナイフを入れて初めて空気に触れる。つまり加熱の途中はパスタの茹で加減を味見することもできない、全くのブラインド調理。それだけに毎回微妙に出来栄えも異なるが「それが料理というもの」とリッカルドはいう。その味わいたるや、2000年前の羊飼いもこれを食べたのか!と思わせてくれること必至。時間を超越した伝統料理の現在進行形である。

一方「オステリア・フランチェスカーナ Osteria Francescana」のマッシモ・ボットゥーラ Massimo Botturaは2014年にモデナを襲った地震の際、地面に落ちて売り物にならなくなったパルミジャーノ・レッジャーノを使いリゾットを作り、同年のロンドン五輪でイタリア選手団にふるまった。これはリゾット・アル・パルミジャーノ・レクペラート Risotto al Parmigiano Recuperato=救われたパルミジャーノのリゾットと呼ばれ、五輪期間中世界中のメディアから注目され、のちのフードロスと貧困を救う活動レフェットリオ Refettorioに繋がった。たかがチーズ、されどチーズ、コロナ禍に苦しむイタリア料理界では、究極の貧困料理であるこのカチョ・エ・ペペをコロナを克服するシンボルとして多くのシェフが積極的に取り組むプロジェクトが水面下で密かに進行している。その波は近々日本にも訪れるはずだが、そうした意味でも2021年はあらためて羊飼いの伝統料理「カチョ・エ・ペペ」に注目したい。

記事:池田匡克